元興寺の旧境内に広がるならまちは、古い町家が今も軒を連ねる町である。細い路地を歩くと、家々の表に、細かな木の格子がどこまでも続いている。秋の午後の光が斜めに差しこみ、格子の一本一本が、路地に細い影の縞を落としていた。
その一角、元興寺町に「ならまち格子の家」がある。江戸の末から明治のころの、この町の町家を再現した建物で、誰でも無料で上がることができる。間口は狭く、奥へ奥へと長い。土間を抜け、箱階段や中庭を眺めてから、表の「みせの間」に戻って腰を下ろした。
外の路地から見たとき、格子の奥は暗く、中の様子はほとんど分からなかった。ところが内側に座ると、表の通りが驚くほどよく見える。行き交う人の話し声、通り過ぎる自転車、足を止めて格子に顔を近づける人。けれど、その人の目には、こちらの姿は映っていないのだろう。同じ一枚の格子なのに、どちらの側に立つかで、見えるものがまるで違う。外からは見えにくく、内からはよく見える――昔の人の知恵なのだという。
人に優しくすることと、人を甘やかすことは全くの別物だ。
しかし、仮にこちらが(相手を甘やかすのではなく)相手を尊重し、 優しく接していたとしても、相手がこちらに甘えていた場合は、 残念な結果となる。
何とも皮肉である。
では、相手の為に甘えを断てるように厳しく、愛をもって、 いわゆる本当の優しさをもって接したとしても、 相手が叱られた・怒られた・注意された・顔をつぶされたと 勘違いされ、場合によっては逆恨みを受けることも往々にして起きる。
要はこちらの意図が何であれ、それをどう捉えるかは 相手によるところが大きい。
ある程度割り切ろう。
格子の家を出て、もう一度、表の路地に立った。振り返ると、さっきまで座っていたみせの間は、格子の奥の暗がりに沈み、もう何も見えない。午後の光がゆっくりと傾き、格子の影が、路地の上に細く長くのびていく。少しだけ軽くなった足取りで、ならまちの奥へと歩き出した。