斑鳩の里の北のほう、三井という集落に、法輪寺はある。田畑と家並みのあいだから、三重塔が見えてくる。法隆寺の五重塔、法起寺の三重塔とともに、「斑鳩三塔」と呼ばれる塔のひとつだ。けれども、いまそこに立つ塔は、飛鳥の昔から立ち続けてきた塔ではない。
昭和十九年の夏、明治から国宝とされていた塔は、雷に打たれて焼け落ちた。戦争のさなかで、避雷針は金属の供出のために外されていたという。国宝の指定は解かれ、公の援けは望めなくなった。住職は親子二代にわたって全国を回り、再建のための寄付を募った。そこへ加わったのが、作家の幸田文である。父・幸田露伴の小説『五重塔』のモデルとなった、東京・谷中の五重塔が焼けるのを見ていた文は、この話を他人事とは思えなかったという。支える人の輪は、やがて全国二万人に広がった。
昭和四十七年に工事が始まると、設計を担った竹島卓一博士と、棟梁の西岡常一とのあいだで、たびたび激しい論争が起きた。博士は、いつか飛鳥の技を知る者がいなくなっても、後の世の人が直せるようにと、鉄で補強することを考えた。西岡は、鉄はかえって木を傷め、塔の寿命を縮めると言って譲らなかった。「そんなことしたら、ヒノキが泣きよります」。どちらも、塔が長く立ち続けることを願っての言葉だった。最後は、鉄をできるだけ少なく使うことで、折り合いがついたと伝えられている。
他人や周囲に対し、よかれと思ってやったことが 思わぬ反発を招くことはよくあることだ。
そんな時は、よくその内容を分析してみよう。
独りよがりではなかったか?
他人や周囲の為と言いながら、 実は自分の為になってはいなかったか?
大事なのは、 他人や周囲とよくコミュニケーションを取り、 皆が好ましい行動を一緒に取っていくことだ。
自分が考える『皆にとって良いこと』は、必ずしも 『他人や周囲にとって良いこと』とは限らない。
工事が始まると、地元の有志たちは、田畑の仕事を一年休んで、現場へ手伝いに通った。「塔、行かなあかん」。それが、合言葉だったという。昭和五十年の春、塔は焼ける前と同じ場所に、同じ姿で立ち上がった。焼け落ちてから、三十一年がたっていた。論を戦わせた二人の思いも、遠くから寄せられた二万人の思いも、田を休んで通った人々の汗も、いまは一本の塔の中にある。斑鳩の里に風が渡ると、軒の風鐸が揺れて、からん、からんと、小さく乾いた音を響かせる。